1. 失われた世界
世界の遥か遠く、南の果てに、”失われた世界”と呼ばれる場所があります。
かつてそこには、高度な科学の力によって繁栄極めた国”ソーラス”が存在しました。
ソーラス人は背に小さな翼が生えており、まるで天使のような容姿を持つ、とても美しい種族でした。
そして、その空想的な姿とは裏腹に、非常に知性が高く勤勉であった彼らは、
優れた科学の力を駆使し、最先端のテクノロジーを先駆けて発達させていきました。
己の未熟な羽では自由に飛ぶ事が出来なかった大空......更に天高く昇り、
果てには、この世界の空に雄大に輝く、あの”青い星”まで渡っていきました。
彼らは自らの夢見る”理想の世界”を作り上げ、万物の創造主となる為に、
あくなき進化を目指し続けたのです。
しかし今、そこに在るものは......荒れ果てた廃墟と、消えてしまった主達を永遠に待ち続ける、
不幸な永久機関を持った機械たち。彼らが目指した理想の成れの果ては、まるで己自身そのものへの否定でした。
ソーラスが”失われた世界”と呼ばれるようになってから、およそ1世紀の歳月が経とうとしていました。
彼らに......そしてこの世界に一体何が起きたのか、正確に記憶している者は、殆どいませんでした。
ただ、その出来事が”ソーラスの大災厄”と呼ばれ、人類の生存圏は、まるで何かに追いやられてしまったかのように
、遥か北の地の5つの都に限られていました。
ソーラスが”失われた世界”と呼ばれるようになってから、およそ1世紀の歳月が経とうとしていました。
ソーラスの地から海を隔てて遥か北西に位置するノース・シルヴァーナ大陸。
その内陸深く、南北に伸びる深い渓谷に挟まれた地に、ウェレンスヴァニアという都があります。
そこは、”ソーラスの大災厄”から残された人類を守る為、かつて軍事産業であったロクスクロス公社が選定した5つの城塞都市の1つでした。
ウェレンスヴァニア渓谷は、南側の空を何重にも渡って覆い隠すような形で蛇行しており、
南側からやってくる大災厄から、市民を守るとされていました。
居住区域は渓谷内の最も低い土地に限定されており、
渓谷の周囲に広がるかつての旧市街は、いずれも廃虚と化していました。
市街地は、露骨な鋼鉄の鉄筋に覆われ、随所に高く伸びた鋭塔や煙突が見られました。
古い歴史文献に描かれた美しい渓谷の都であった面影はもはやどこにも無く、
まるで人々の心を投影するかのように、冷たい空気と黒い影に覆わていました。
2. リヴェットとレティシア
ウェレンスヴァニア教会の集会が終わり、レティシアは家路を急いでいました。
ここウェレンスヴァニア47区は、渓谷内の居住地区の中でも、最も北側にある辺境です。
傾斜に沿って鋼鉄の足場が組まれ、そこに多くの民家が並んでいました。傾斜を蛇行するように伸びる道は、市内の居住区画の中で
最も標高の高い場所まで繋がっていました。
鳥か...或いは妖精の羽のように見えるマントをなびかせながら、レティシアはその道を大急ぎで駆けていきました。
手に持ったバッグの中からは、1冊の分厚い本が顔を出していました。
やがて、傾斜は平坦になり、道は雑木林の中へ入っていきました。
森に囲まれる形で、数軒のお屋敷が道に沿って並ぶ場所に来ると、レティシアはその内の1軒の敷地へと入っていきました。
そこはルウェイン家の別荘で、かつて冒険家シュレットが暮らしていたお屋敷でした。
発明家としても知られていた変わり者シュレットを象徴するように、
お屋敷は機械仕掛けになっていました。到る所に歯車、風車が取り付けられ、あらゆる部屋にパイプや鋼鉄の骨組みが露出していました。
その姿はまるで、お屋敷そのものが今にも動き出しそうな程です。
屋根には小さなドーム型の天文台が取り付けられており、その円形の観測室の中に、一人の少女がロッキングチェアに腰掛けていました。
背中には小さな美しい白い翼、先端が少しカールした長く美しい金髪.....まるで天使のような可憐な容姿の少女は、
手に本を抱えたまま、すーすーと気持ち良さそうに眠っていました。
下の階から、レティシアの声が響きました。
「リヴェット.....リヴェット!ねえ、そこにいるのですか?」
レティシアが階段を駆け上がり、観測室に入ってきました。
「あらあら....気持ち良さそうに眠っていますわね」
眠っているリヴェットを眺めていたレティシアは次第に、いつもの悪戯心に掻き立てられ、にやりと笑みを浮かべました。
「うふふ.....羽~やわらかそうですわっ えい~」
「きゃう」
レティシアがリヴェットの羽に抱き付きながら顔をうずくめると、リヴェットは驚いて目を覚ましました。
「.....あうぅ....レティ、駄目だよぅ」
「おはよう~リヴェット」
「....レティ、おかえりなさい。私、眠っていたのね」
「リヴェットってば、すぐお昼寝しちゃうんだから。悪い奴に襲われてしまいますわよ」
「襲うのはいつもレティだよぉ....」
リヴェットは寝ぼけた声で返事をしながら、記憶を辿ろうとしていました。
そうだった。私は夢を見ていたのだと......リヴェットは夢に出てきた”あの風景”を思い出していました。
まるで連星のように、空に浮か雄大な青い惑星。そして、眼下一面に広がるひまわり畑.....。
実はリヴェットがその夢を見たのは、これが初めてではありません。
「.....どうしましたの、リヴェット?」
「ううん、なんでもない....」
「ねえリヴェット、ほら。またソーラスに関する本を手に入れましたわ。はい」
「レティ....ありがとう.....でも、駄目だよ? 勝手に教会から持ってきちゃ」
「うふふ....何の事かしら~。大体、仕舞い込んで誰にも読まれない本なんて、何の意味も無いのですわ。
さて、もうすぐ暗くなりますわ。早くお部屋に戻りましょう。お茶を入れますわ」
「...ありがとう」
リヴェットはリビングに戻り、レティがリヴェットの為に背もたれをうんと後ろに倒してしまったソファに腰掛けると、先ほど受け取ったソーラスの本を眺めました。
本はソーラスの言葉で書かれており、大変古いものでした。
しかし普通の紙よりも丈夫な素材で出来ており、日焼け等の劣化はそれ程まで見られないようでした。
残念ながらリヴェットはソーラスの言葉を読む事は出来ない為、本に何が書かれているのか
理解する事は出来ません。その本は文章の配置から察して、詩集のように見えました。
表題ごとに綺麗な絵が挿入されており、リヴェットはその絵に夢中になりました。
パラパラとめくり、最後のページに差し掛かった時、リヴェットは思わず息を呑みました。
それは......リヴェットの夢に度々見てきた、あの”ひまわり畑”の光景だったのです。
「これって......」
リヴェットは動揺し、手の震えが止まりませんでした。
「お茶が入りましたわよ~」
レティシアの明るい声でリヴェットはふと我に返り、慌てて本を閉じました。
「ねえリヴェット、その本、何が書いてありましたの?」
「うん....え、えっと....詩集みたい」
「何か手がかりになりそうかしら?」
「うん....もう少し、調べてみないと.....」
「そうですわね。でも、夜更かしは駄目ですわよ」
レティシアは2つのティーカップをテーブルにそっと置くと、ソファの後ろ側に廻り、
リヴェットの羽を優しく撫でながら、形を整え始めました。
「さっきはごめんなさいね。でも、リヴェットの羽はとてもふわふわして気持ち良いのですわ」
「レティが綺麗にしてくれるからだよ......いつも、ありがとう」
「まあ、この子ったら、可愛いことを言いますわ。えいっ」
「きゃっ」
レティシアはまたリヴェットに抱き付いてきました。リヴェットは羽をパタパタさせながら
抵抗しようとしました。
二人はこうしていつものようにじゃれている間、悲しい出来事を忘れる事が出来ました。
悲しい出来事......それは、冒険家である祖父シュレットが最後の冒険飛行に出発し、そして消息を絶ってから、とうとう2年が経ってしまったことでした。
3. 冒険家シュレット
リヴェットは、部屋の正面の壁に飾ってある写真に目が止まりました。
それは7年前、リヴェットがルウェイン家に引取られてまもない頃の写真でした。
中央にシュレットが立ち、その周りに彼の冒険仲間達が並んでいます。
まだ10代の少女だった頃のステラ(今はこのお屋敷に仕える家政婦さん)の姿もありました。
一番手前に、幼いレティシアとリヴェットが手を繋いで並んでいました。
シュレットは7年前の冒険飛行で、一人のソーラス人の孤児を保護し、引き取りました。―それがリヴェットでした。
他人と姿形の違う自分を、暖かく迎えてくれたのも、この写真に並んでいる人々でした。
しかし、今ではもうレティシアとステラだけになってしまったのです。
若い頃、考古学者だったシュレットは、失われてしまった大災厄以前の歴史、文化の解明に情熱を注ぎました。
その情熱は、いつしか”この目で確かめて証明しなければならない”という使命感から、学問を放棄して冒険家となったのです。
ロクスクロス公社が定める境界線の”外の世界”......特にソーラス大陸への冒険飛行は幾度となく繰り返され、
現在のソーラスの状況など、多くの事が分かるようになりました。
彼はこれらの冒険飛行の中で、ある最大の謎の解明に挑み続けてきました。
”何故、彼らが消えてしまったのか、そして何処へ行ってしまったのか”
しかし、このシュレットの行動を快く思わないのが、ロクスクロス公社でした。
公社は、大災厄をおびき寄せ、残された人類を滅亡の危険に晒すという理由から、
市民が無許可に居住地区より外に出る事を一切禁じました。
それでもシュレットは、公社の監視を潜りながら、危険を顧みずに幾度もソーラスの地に足を運びました。
「我々は、真実に向き合わなければならない」
―それが、いつも彼の口癖でした。
シュレットは最後にソーラスへの冒険飛行に出発してから、予定していた期間を遥かに過ぎても、
ウェレンスヴァニアに戻りませんでした。
冒険飛行の最中、事故に見舞われたのか。公社の防衛艦隊に捕まってしまったのか。
今では誰もがもう、シュレットの帰還を絶望視しており、ルウェイン家の親族の間では、いつ葬儀を行うべきか、遺産を誰が引き継ぐのか、
そんな話さえ議論されていました。また、誰一人としてシュレットの後を継ぎ、冒険飛行の継続を支持する者はいませんでした。
レティシアはそんなルウェイン家に失望し、リヴェットと家政婦のステラを連れて
ここシュレットの別荘に移り、3人だけで暮らすようになったのが、1年前の事でした。
―リヴェットの寂しそうな視線に、レティシアは気づきました。
「......あのじじいがいなくなって、もう2年が経つのですわね」
4. 祖父の遺言
リヴェットとレティシアが朝食を取っていると、レティシアが奇妙な事を訊いてきました。
「ねえリヴェット。あの地下室の扉の事、何か知ってますの?」
「地下室....?」
「そう。そこにずっと鍵が掛かっていて、どうしても入れない扉がありますの。
ステラさんに訊いても”分からない”って言いますし、気になりますわ~」
「あの地下室、苦手.....」
「あら?ひょっとして怖いのかしら?」
「うん.....」
レティシアは何かまた悪戯が思いついたような顔で、ニヤニヤとリヴェットを見つめていました。
―突然、外から家政婦のステラの叫び声が聞こえました。
「レティシア様!リヴェット様!大変です!」
「ステラさん、どうしましたの?凄く慌てていますわ」
「先ほど、このようなものがお二人宛に届きました.....」
レティシアがその荷物を受け取ると、彼女もまた驚いて、思わず叫びました。
「あのじじいからですわ!」
それを聞いたリヴェットも、思わず手に持っていたフォークを落とし、レティシアの方を向いたまま固まってしまいました。
「消印は、西の城塞都市ルーヴェンからですわね。この封蝋の印璽は、確かに....あのじじいの物ですわ。城塞都市間の定期便は半年に一度ですから、これが送られたのは半年前って所ですわね」
「おじい様、もしかして......」
「分かりませんわ。兎に角、開けてみましょう」
レティシアは封を解き、木箱をそっと開けると、中には映画のものと思われるフィルムが入っていました。
映写機は、発明家でもあったシュレットが若い頃に作ったものでした。
昔はよく、お屋敷の映写室で、彼が冒険中に撮影した記録映画、外の世界から持ち帰ってきた映画を
皆で一緒に鑑賞していました。
外の世界やソーラスの姿を伝える上で、これほど優れた方法はありません。
「準備が出来ましたわ。リヴェット、明かりを消して下さいな」
「うん」
映写機がカタカタと回り始めました。部屋の照明が落ちると、スクリーンにぼんやりとモノクロの映像が映し出されました。
スクリーンには、消息を絶つ前のシュレットと、その冒険仲間達が映し出されていました。
このフィルムもまた、仲間が撮った記録映画のようでした。
ただ、サウンドトラックが破損していたため、音声はありませんでした。
最初に映し出されたのは、夥しい数の風車が取り付けられた、背の高い建物が並ぶ街でした。
一行は、その街の中心部にある博物館のような場所を訪れ、その最も大きな円形の部屋に入ると、
そこには1つのフィオール(バイオリン)が展示されていました。
カメラはそのフィオールにズームしていきました。
フィオールには十字のマークが刻まれており、そこに”Sista Fiolen”と記されていました。
次に映し出されたのは、とても大きな湖でした。
上空から映したその湖の湖面には、所々に背の高い鋭塔が突き出すように立っており、ここがかつて街であり、
湖面に沈んでしまった事を示唆していました。
一行は、湖面から突き出た建物の1つに降り立ちました。
遥か下の湖面を見下ろすようにカメラが移動すると、そこで映像は途切れてしまいました。
暫くノイズが続いた後、次に映し出されたのは、シュレット達が乗る飛行船メリエス号と、その後方を飛ぶ
大きな飛行船....いや、リヴェット達がまだ見た事が無い、大きな翼の付いた不思議な形をした謎の航空機の映像でした。
カメラはそれを、様々な角度から映し出し、時折シュレット達の嬉しそうな姿がカメラの前を横切りました。
――映像はそこで終わり、あとはノイズだけがスクリーンに残りました。
暫くして、レティが言いました。
「ねえリヴェット。映画って不思議ですわね。
ずっと昔に亡くなってしまった人、失ってしまった光景を.....こうしてまた見る事が出来ますの。
私達に、過ぎ去った過去、そして時には、想像力で作られた未来を見せてくれる事もありますわ。
まるで、時間という概念から離れ、自分達のいた時間軸をフィルムにして、遠くから眺めている。
そんな気がするのですわ」
「....うん」
「きっとこれは、最後の冒険の記録ですわね」
「でも、おじい様はどうしてこのフィルムを私達に託したのかな.....これを送って来たという事は、
おじい様はルーヴェンにいるのかな?」
「.....少なくとも、一行がルーヴェンまで帰って来た事だけは確かですわね。
でも、何故ここウェレンスヴァニアではなくルーヴェンに.....きっと、そこで何かがあったに違いないですわね。
リヴェット。もう一度見てみましょ。フィルムに手がかりがあるかもしれませんわ」
――しかし、何度繰り返しても、手がかりになりそうな情報は見つかりませんでした。
二人は途方に暮れ、ノイズを再生したまま、ぐったりとしていると、突然真っ黒い画面に変わり、
白い手書きのメッセージが現れました。
何も映っていなかったと思っていたフィルムの最後に、シュレットのメッセージが隠されていたのです。
親愛なる孫娘達へ
君達がこのメッセージを読んでいる頃は、私達が失踪してから随分経った後になる事だろう。
君達に伝えたい事は山ほどあるが、今はもう時間が無い。
だから、重要な事だけをここに記す事にした。どうか許して欲しい。
私の書斎の、奥から2番目の本棚にある、アイゼン・バーグマンの”灯台”という著書の表紙の中に、
ある物を隠している。いつか、君達が立派な大人になり、冒険に旅立つ時が来た時、それを譲ろうと思っていた。
しかし、時間は残念ながら、待ってはくれなかったようだ。もしそれが彼らの手に渡れば、ソーラスへの道は永遠に絶たれてしまうだろう。
そうなる前に、これを君達の手で守り、そして私達の夢を引き継ぎ、叶えてやって欲しい。
「....おじい様」
これは、シュレットの遺言でした。既に彼はもうこの世にはいないのだと......そう悟った二人は、悲しみに暮れ、涙を抑える事が出来ませんでした。
しかしレティシアは涙を拭い、すっかり泣いてしまったリヴェットの肩に手を置いて言いました。
「本当に....最後まで自分勝手なじじいですわ。でも、上等ですわ。リヴェット。すぐ書斎に行きましょう。
見てやりましょう。あのじじいが私達に託したものを!」