11. 面影
クラウディアの寝室にある広い天蓋ベッドに、二人は寝間着姿で横になっていました。
結局、スピカは約束通り、クラウディアと一緒に寝る事になったのです。
「....ねえ。起きてますか?」
クラウディアは静かな声で、背中を向けて丸くなっているスピカに言いました。
「起きてませーん。」
スピカは不機嫌に答えました。
「もう、スピカったら......機嫌直して下さい。」
二人は無言になりました。暫くしてクラウディアが言いました。
「....ねえスピカ。聞いてもいいですか?」
スピカは少し間を置いてから弱々しく答えました。
「なんでしょうか?」
「あなたも.....夢を見るのですか?」
「.....はい。ですがそれは、人が見る夢のようにいくつかの記憶が複雑に交わる映像ではなく、単に断片化された記憶を最適化する過程の確認でしかないんです.....」
「そう......夢はきっと、人にしか見る事が出来ない、記憶が作る幻.....という事ですね。
私達リコレクターの力は、きっと夢の進化から生じたものなのかもしれませんね」
スピカは少し驚いて言いました。
「......クラウディアは、リーネス様と同じことを言うのですね。」
「うふふ.....何だか私と気が合いそうですね。」
「駄目ですからね。手を出しては。」
「あらスピカってば。今は他の人の心配をしている場合ではありませんよ.....えい!」
クラウディアは背後からスピカに抱き付きました。
「きゃ!こら!やめなさい!」
スピカはクラウディアの頬をぎゅっと引っ張りました。
「いたい、いたいれふよ....」
スピカはゆっくり手を離すと、クラウディアのほほを優しく撫でて、哀しそうな表情で言いました。
「クラウディア....積極的になる相手が違います。私は所詮、只の人工妖精なのですから.....」
「あら....スピカったら。愛の形にこだわるのは、今時オールドホームの一部の人達くらいですよ。」
「......そうなのですか?」
「ねえスピカ.....あなたには好きな人はいるのですか? 愛している人、想っている人。それはあなたと同じ、妖精なのですか?」
「それは....」
スピカは今まで考えた事もありませんでした。恋愛という感情も、その対象も.....。
もしそれが心に想っている人の事だとすれば、きっとリーネスの事かもしれない....スピカはそう思いました。
「ねえスピカ.......誰かを好きになる事は、決して悪い事ではありませんよ。それは貴方に、鳥籠から飛び立つ勇気を与えたのですから。」
クラウディアは仰向けになり、瞼を閉じました。
「また明日ね....おやすみなさいスピカ」
「クラウディア.....」
―それから暫くの間、スピカは穏やかに眠るクラウディアを見つめていました。
こうして見ていると、目の前にいる少女がリーネスではないかと錯覚してしまう程、二人はよく似ているとスピカは思いました。
スピカはそっとクラウディアの傍に寄ると、手を優しく握り、心の中で呟きました。
「あなたはクラウディア? それとも......リーネス様なのですか?」
12. 新しい家政婦
次の日、ガーシュタイン城では一斉に大掃除が始まっていました。
稼働している家事ロボットが総動員され、城の部屋という部屋全てを清掃し始めていました。
クラウディアとハンスは呆然としながら、その奇怪な光景を眺めていました。
クラウディアの姿に気づいたスピカが近寄ってきました。
スピカはフリルのついた可愛らしいエプロンをまとい、頭に三角巾をかぶっていました。
「クラウディア。おはようございます」
スピカは満面の笑顔で、とても上機嫌に言いました。
「ちょっとスピカ.....一体何の騒ぎですか?」
「クラウディア。私は暫くこの城のライフシステムを宿主とさせてもらう事にしました。
あの子達も喜んで迎い入れて下さいましたし....ここにいる間、クラウディアを少しでも素敵な女の子に更生させる為、
あらゆる努力を惜しままないと決めたんです」
クラウディアは、突如として生き生きとしたスピカを茫然と見つめていました。
「か、構わないですけど......まさかこのお城のロボットもライフシステムも全部、今あなたが制御しているのですか?」
「はい。私にはこの程度、まばたきと同じですよ」
スピカはとても誇らしげに言いました。
「あ、大変!」
突然、スピカはキッチンの方へ向かって走っていきました。
クラウディアは苦笑してしまいました。
「あの子.....本当に人工妖精なのかしら。そう思わない?ハンス。」
クラウディアは澄ました顔でクスッと笑うと、その場を後にしました。
―が、突然クラウディアの目の前に再びスピカが現れました。
「どこへ逃げるのですか? はい、これを....」
スピカはクラウディアに、自分が身に着けているものと同じエプロンと三角巾を手渡しました。
「え? まさか.....」
「ちゃんと手伝って下さいね。」
スピカはクラウディアの手を掴み、引っ張っていきました。
「あーん、スピカちゃんがいじめます~」
悲痛な叫びもむなしく、クラウディアはスピカに連れて行かれてしまいました。
13. 進化の生贄
クラウディアはすっかり疲れ果てて、広いソファにダラーと寝転びながら、目の前にあるホログラムスクリーンを眺めていました。
それに気づいたスピカは慌てて駆け寄り、クラウディアのめくれたスカートを整えました。
「クラウディア! ちゃんと隠してください! はしたないですよ!」
「あら....スピカってば、もっと眺めていても良いのですよ?」
「怒りますよ!」
スピカは赤面して、クラウディアの頬をぎゅっとつねりました。
「いたい、いたいれふ.....見えないれふよぉ」
「もう.....一体何を見ていたのですか.....」
スピカはクラウディアが眺めていたホログラムスクリーンを覗き込みました。
「これは......フランベル様?」
「あら、やはり知っていたのですね。」
「フランベル様はエーレスニア・リングで見かけた事があります.....言葉を交わした事はありませんが、あの方からは私達妖精と同じ....強いエンパスを感じる取る事が出来ました。不思議な方でしたが、ずっと哀しそうな顔をしていました.....」
「気に掛けていたのですね。」
スピカはクラウディアの傍に腰掛け、懐かしそうにスクリーンに映し出されたフランベルの姿を見つめました。
クラウディアはむくっと起き上がって言いました。
「フランベル皇女は初めて、NEBO-SYSTEMの被験者となった女の子なんです。だから人工妖精と同じエンパス・エネルギーを持ち、妖精達を引き付けるんです。
あの子はソーラス人のテクノロジーの進化.....いえ、どちらかと言えばシューガルデンの優位性を象徴する存在として、いわば生贄のようにされた子なんです。」
「そんな.....フランベル様は皇女なのに.....」
「シューガルデン皇国の世襲は、第1子が優先的に後を継ぎます。”進化の生贄”となるのは代々末っ子の役目。
延命、不老、人工妖精達との心身融合、そしてリコレクターの力.....過去には実験の失敗で命を落とした子もいました。」
クラウディアがスクリーンをタッチすると、そこにはまだ10代前半のソーラス人の少年少女達の顔写真が並びました。
それは全てが、”進化”の犠牲となった子供達でした。スピカは悲しみのあまり、言葉を失いました。
「ひどい....なんてことを.....」
「ソーラスは急進的な進化という理想に囚われすぎて、時に自分達が何をしているのか見失ってしまいます。シューガルデンも、そしてあの人もね.....」
「私が作られたのも、きっとこの子達と同じ理由なのでしょうか......」
自分が所詮、彼らにとって象徴の道具に過ぎない現実を実感し、スピカは心が凍り付くような寂しさを感じました。クラウディアはスピカの手を優しく握りました。
「スピカ.....生まれた理由は変えられませんが、どう生きるかは自分の意思で決める事ですよ。」
14. 過去の記憶
スピカがガーシュタイン城にやって来てから(城をひっくり返すような大掃除を始めてから)5日が経とうとしていました。
ガーシュタイン城の清掃も順調に進み、荒れ放題だった庭には(スピカが勝手に取り寄せてきた)立派な木々や美しい花が植えられ
、幽霊城の面影もすっかり成りを潜めていきました。
そしていよいよ、最後に残されていた北側の塔に着手する事となりました。
クラウディアが頑なに「ここは絶対に入っては駄目ですよ。私の秘密の部屋ですから」......と拒んだ北の塔の小部屋へ繋がる渡り廊下の上に、スピカはモップを構えて勇ましく立っていました。
「きっとやらしい物を隠しているのですね。全部処分します。」
スピカはジトッとした目つきで扉を睨んでいました。そして機嫌悪そうに勢いよく扉をバタンと開き、中へと入っていきました。
―1年以上も放置されていた為か、扉を開け放った途端、非常に埃っぽく淀んだ空気が流れ込んできました。
照明のボタンにそっと手を触れると、埃だらけになった照明器具がぼんやりと朱色の光を放ち、部屋全体を照らしました。
そこでスピカは思わず言葉を失い、暫く立ちすくんでしまいました。
そこは円形の部屋で、天井には小さな天窓に向かって柱が伸びており、壁には一面に広がる夜空と地面を覆う美しいリンドウの花を模した絵が描かれていました。
中央にはカーテン付きの小さな子供用のベッドと机が寂しげに置いてあり、天窓から差し込む光に照らされていました。
そこはまるで鳥籠のような子供部屋......かつてスピカがいたエーレスニア・リングの部屋とそっくりでした。
スピカは部屋を見て回りました。机の上のホログラム・フォトスタンドには、幼いクラウディアと、両親と思われる人物の写真が飾られていました。
また、その直ぐ隣には古式のホログラム投影機が置いてありました。
スピカは無意識に投影機のスイッチを押しました。
―銀色の髪と、漆黒の翼の可愛らしい少女の立体映像が映し出されました。それはクラウディアの幼い頃の姿でした。
クラウディアは人工妖精達と共に、楽しそうにフィオールを演奏していました。
お世辞にも上手いと呼べる演奏ではありませんでしたが、不思議とその旋律に惹かれて、暫く聴き入ってしまいました。
すると当然、映像が途切れて消えてしまいました。
スピカは少し残念そうに投影機を見つめると、それを手に取って調べました。投影機の裏側にはこう書かれていました
”NEBO暦212年11月4日"
「入っては駄目と言ったのに.....スピカってば本当に困った子ですね」
クラウディアが呆れてため息をつきながら入って来ました。背後からハンスもパタパタと入ってきました。
クラウディアはスピカの傍に来ると、投影機のスイッチを押しました。再び幼いクラウディアの立体映像が現れました。
クラウディアは寂しそうに見つめて言いました。
「.....本当は、聞かれるのが怖かったんです。私、この頃の記憶が無いんです.....いいえ、どこにあるかは分かっています。でも、それをどうしても見る事は許されない......」
「.....クラウディア? 一体何の話を」
「ごめんなさい......今のは忘れて下さいね。それよりスピカってば酷いです! "きっとやらしい物がある"なんて......私はそんなはしたない子ではありませんよ」
スピカはジトっと呆れた目つきでクラウディアを見つめると、裾に隠していた別のホログラム投影機を差し出しました。
再生すると、二人の可愛らしいソーラス人の少女達が、生まれたままの姿になって抱き合い、キスをする立体映像が現れました。
「あ......あらぁ....それは何かしら。」
クラウディアは誤魔化すように目を逸らして言いました。
「クラウディア.....ちょっと話があります」
クラウディアはスピカにずるずると引っ張られて、連れて行かれてしまいました。
15. お化け
その日の深夜、スピカは城の警備ロボット達を連れてインフラ系統の見回りをしていました。
消灯されて真っ暗闇の前方に、怪しい人影を見つけました。
よく見るとそれはぼさぼさになった長い髪の毛の少女で、不気味な髪の毛の合間から赤く光る瞳をのぞかせ、じっとスピカ達の方を向いていました。
スピカはベルナルデ・アパートの螺旋階段で見かけた、あの少女のゴーストの事を思い出しました。<
まさかあのゴーストがここまで追ってきたのではと思い、即座に警戒レベルを引き上げようとしたスピカでした.....が、直ぐに正体見破り、呆れた表情で言いました。
「.....一体何をしているのですか、クラウディア。」
「....あら、その声はスピカ? そこにいるのですか? ごめんなさいね.....前がよく見えないんです......」
クラウディアはまるでゾンビのように、ぼさぼさになった長い髪の毛の間から、白い腕を前に突き出し、よろよろと近づいてきました。
「クラウディア........ちゃんと髪を束ねないで寝てしまったんですか。まるでお化けですよ......」
「ふふっ.....ひょっとしてスピカったら。私がお化けだと思って、びっくりしたんですね。かわいい! お化けですよ~ひひひひ!」
奇怪な声を出して襲い掛かってくるクラウディアをスピカは呆れながら避けて、すぐ後ろに回り込み、だらしない髪の毛をつかむと、くしでとかし始めました。
「いたい、いたいですよ、スピカちゃん」
「じっとしていてくださいねー」
「わかったから.....お願いです、ここじゃなくて、せめて部屋に入りましょう。」
―クラウディアの寝室に戻ると、スピカは慣れた手つきでベッドに腰掛けているお化けの髪を丁寧に束ねていました。
「こんな夜中に....一体何をしていたのですか?」
「えっと.......うふふ、ひみつです。」
「私を脅かそうとしたんですか?」
「ギクッ....」
スピカは深くためいきをつきました。クラウディアは寂しそうに言いました。
「ごめんなさい.....でも、スピカは初めて会った時と比べて、ずっと喋ってくれるようになりましたよね。」
スピカは少し驚きましたが、穏やかな笑顔で言いました。
「.....そうかもしれません。実は最初、クラウディアの事を警戒していたんです。
リコレクターは、私達人工妖精にとって得体の知れない存在。理解するのは難しいのです。
でも、イタズラばかりするあなたを見ていると、何だか安心してしまって......」
「.....嬉しいですよ。ねえスピカ.....良い感じになった所で、今夜はこのまま一緒に寝―」
「駄目です。」
「うー....」
「クラウディア。そういう......変な事を云うのはやめて下さいね。」
「スピカが少しもその気にならないから、私も必死なんですよ。」
スピカは呆れてしまいました。
「ねえスピカ。」
「....なんですか?」
「エルリア・ゲートに無事、辿り着けるといいですね。」
「.....はい。」
もしエルリア・ゲートに辿り着けば、きっとこの世界とも、クラウディアともお別れになります。
そう思うと、スピカは急に寂しい気持ちになりました。
16. 4つのタクト
―時と場所は変わり、そこは巨大な円形のゲートの前に広がる、時計盤と周囲を夥しい数の歯車が取り囲む不思議な空間。
しかしかつての姿とは異なり、歯車は殆ど動いてはおらず、ゲートは今にも消えてしまいそうな弱々しい赤い光の帯に包まれていました。
時計盤の6時の位置に、二人のソーラス人の少女が立っていました。
大きな剣を携えたクリーム色の長い髪の少女が辺りを見回しながら前に進み出て行きました。
「....ここがエルリア・ゲート? 本当に実在していたのね.....」
少女は目の前に佇む巨大なゲートをじっと見つめていました。
すると、美しい金髪の巻き髪に赤い大きなリボンを結んだ可愛らしい少女がパタパタと駆けていき、背後から抱き付きました。
「リリちゃん!」
「きゃっ.....ちょっと、姫様.......」
「リリちゃん、怖い顔してるよ?」
「姫様.....」
リリは心配そうに見つめる少女を優しく撫でると、再び深刻な表情でゲートを見つめました。
「姫様.....あの門は既に多くのエンパス・エネルギーを失っています。」
「うん.....このままじゃ動かないね。」
「.....その通りだよ。」
少年の声がホールに響きました。
リリは咄嗟に、背後にいる金髪の少女を護るように身構え、剣を鞘から抜きました。
時計盤の9時の位置にぼんやりとした影が現れたかと思うと、その影の中から大きなローブと帽子に身を包んだ少年が現れました。
「あなたは誰!?」
「僕はエルリア・ゲートの監視者。特に名前は無いけど.....そうだな、エドワード・ウェルズとでも呼んでくれ。
初めまして......元シューガルデン王宮近衛騎士団のリリ、それに.....シューガルデン第3皇女フランベル様、お目に掛かれて光栄です。」
ウェルズは帽子を取り、礼儀正しく頭を下げました。
フランベルもまた深く頭を下げると、無邪気な笑顔で言いました。
「初めまして。帽子可愛いね。」
リリはムッとして、二人の視線を遮りました。
フランベルはクスクスと笑いながら言いました。
「あ、リリちゃんまた妬いてる?」
「な!そ、そういうわけでは.....」
リリはハッと我に返り、直ぐに向き直ってウェルズに剣先を向けて言いました。
「とにかく.....これの動かし方を知っているなら教えなさい。」
「エルリア・ゲートを再び開くには、とても大きなエンパス・エネルギーが必要なんだ.....君にも分かっているだろう?」
ウェルズはゲートを見上げ、何かを思い出すかのように虚ろな目で眺めながら言いました。
「以前、ある人がこのゲートの力を乱用し、時間軸を大きく歪めてしまった。その為に、多大なエンパス・エネルギーを失ってしまった。このままでは動かす事は出来ないよ。」
フランベルはリリにまた抱き付きました。
「リリちゃん、怒っちゃだめだよ?」
「うっ....」
「それだけじゃないんだ。亜空間が大きく傷つけられ、ゲートそのものが不安定になっている。仮にパワーソースを得ても、あと1度のジャンプで崩壊してしまうだろうね......」
「.....ふん。あと1回使えれば十分だわ。どうせ戻る必要なんて無いもの。ねえ、そのパワーソースはどこにあるの?」
「そうだな.....確実なジャンプを可能にするなら、エターナルコアを持つ妖精をこのエルリア・ゲートのパワーソースに使うのが最適だろう。」
「エターナルコア? そんな妖精なんて本当に居るの?」
「Evighet。第4階層の持つ無限の記憶から生まれた、人が造りし可憐な妖精。」
「ちょっと.....何よそれ。ちゃんと言いなさいよ。」
「スピカちゃんだ!」
突然、フランベルが叫びました。
「え?」
「AI.Evighetはスピカちゃんの事だよ。とっても綺麗で、可愛い妖精さんだよ。」
フランベルがとても嬉しそうに言いました。
「姫様、知っているのですか?」
「どうやら、彼女は今.....この星に来ているようだね。」
ウェルズが指さした先には宙を浮遊するスフィアがあり、その中に黒い翼の少女と共にいるスピカの姿が映し出されていました。
フランベルは嬉しそうに言いました。
「スピカちゃん、やっと鳥籠から出られたんだね。良かった.....」
「彼女達の目的はどうやら....君達と同じみたいだね。しかしあの子は確か.....」
リリはスフィアに映るスピカ達の背後に佇む建物を見て言いました。
「.....あの建物は知っている。ソルナ・ティエナのゲートウェイアーチ。いいわ......あのスピカっていう子を連れてくればいいのね。」
リリは剣を鞘に戻し、フランベルの方に向き直って言いました。
「姫様、私はすぐにソルナ・ティエナへ向かいます。」
「え....ねえ、リリちゃん.....」
フランベルは心配そうに何かを言おうとしましたが、それは言葉になりませんでした。
「そうだ君達。折角ここまで来たんだ。このエルリア・ゲートの高貴な力の一部を君達にも授けよう。」
「今度は一体何よ。」
ウェルズは時計盤の3時の方向を向いて言いました。
「あの4つの祭壇に、それぞれタクトが置いてある。
Lengselのタクト。君達がALTIMAと呼ぶ記憶の世界で、強い願い、そして憧れの想いを、このタクトは第4階層とリンクさせ、大きな力に変えてくれる。君達が望むものを、1つだけ選んでいいよ。」
リリは4つの祭壇の上に視線を向けました。そこには確かに、小さなタクトが綺麗に並べられていましたが、左端と、右から2番目の祭壇にタクトが無い事を不思議に思いました。
「.....ねえ、2つしかないわよ?」
ウェルズは淡々と答えました。
「ああ....英知のタクト、そして勇気のタクトは、既に譲ってしまったからね。」
「なによ、随分人気じゃない。」
「タクトはエルリア・ゲートの命運と共に人の手に渡っていく。今、このゲートの運命が大きく動き出し始めようとしている.....」
リリは相変わらず思わせぶりな事を言うウェルズの口調に苛々していました。
「.......それで、さっき言ってたエルリア・ゲートを通って壊したという子も、これを持って行ったの?」
「うん。だけど....そのタクトが力を発揮してしまった結果がこれなんだ。何があっても、あの子を静止するべきだった.....」
「ふーん.....で、その子は未来の世界で一体どうしているのかしらね。」
「あの子は罰を与えられた」
「罰ですって?」
リリは驚きました。
「そう。時間軸を殺した罪で、僕の主である”高みの存在”から罰を与えられたんだ......」
突然、フランベルがパタパタと駆け出していきました。
「あ、ちょっと姫様!」
リリは慌てて追いかけました。フランベルは右から2番目の祭壇に向かっていき、緑色の光を放つタクトを手にしました。
「これ!」
フランベルがタクトを掲げた瞬間、祭壇は光の粉となって消滅しました。
「姫様!もっと慎重に選ばれた方が....」
「ううん、私はこの子を選ぶって決めていたよ。これが私のタクト.....それに、アトリアちゃんのタクト.....」
「守護のタクト.....君らしい選択だね。」
「姫様ったら.....しょうがないですね。それにしましょう。」
「うんっ」
二人の無邪気なやり取りを横目に、ウェルズはスフィアの中に映るもう一人の少女.....クラウディアの姿を睨んで言いました。
「.....また君はこうして、何度でも摂理に挑む気なのか。」
―くすんだ大聖堂の中庭には、大きな円形の転移装置=クラックスがありました。クラックスの周囲には数名の尼が集まっており、
彼女達は不器用な手つきでホログラムパネルを操作し、クラックスを開こうとしていました。
クラックスが眩く輝き出しました。 光は少しずつ落ち着き、中央にある円形のゲートの内側に青白い幕が現れました。
クラックスの前には、リリとフランベルの姿がありました。ゲートの中へと進もうとするリリに、フランベルは悲痛に叫びました。
「リリちゃん!私も行く!」
「姫様!危険です!」
隣にいた尼がフランベルを抱きかかえて静止しました。
「やだよぉ!エルザちゃん離して!」
「姫様!」
リリの怒鳴り声が響きました。フランベルはよろよろと力が抜けていき、その場にしゃがみ込んでしまいました。
「エルザ.....姫様を頼みます。」
「承知しております。」
「姫様.....私は必ず妖精を連れて戻ります。」
リリはフランベルに穏やかな笑顔を向けて言いました。
「リリちゃん.....絶対に帰ってきてね!あと、スピカちゃん達をいじめたら駄目だよ? めっだよ!」
リリは向き直ると、大きな黒いマントで白い翼を覆い隠し、無言のままゲートの内部へと進んでいきました。
フランベルには言えませんでしたが、リリにはいざという時に手荒な手段を使ってでも目的を達成する覚悟がありました。
「もう、この世界に私達の居場所は無いもの.....」
リリは小声でつぶやきました。
リリの背後を黒い影が覆いました。その影はリリの周囲を取り囲むと、彼女の中へと消えて行きました。
17. ティエナ・ゲートウェイアーチ
―クラウディアとスピカは再びソルナ・ティエナへやって来ました。
巨大なアーチ状のオブジェ内部から管理者用のリフトに乗って最上階まで昇り、野外展望台に出ると、強い風が二人に吹きつけました。
クラウディアは気持ちよさそうに手を広げて言いました。
「ティエナ・ゲートウェイアーチ。ソーラス人のNEBO入植の記念碑として建造された、いわば開拓時代の登竜門のような存在です。NEBOで最も古い建物の1つですよ」
「クラウディア.....ここは立ち入り禁止ですよ。それに、こんな所に何か手掛かりがあるのですか?」
「ティエナ・ゲートウェイアーチは、今日ではエンパス・エネルギー資源の1つとして知られる共感物質”ECHO”から作られています。
ECHO粒子は全ての記憶を共有し、蓄積していくエンパス能力を持っています。
つまり、この星が開拓された当初から今に至るまの、膨大な記憶をこのアーチから探し出す事が出来るんですよ」
クラウディアは辺りに誰も居ない事を確認すると、両手を差し出しました。
「このアーチに刻まれた記憶を辿れば、きっとエルリア・ゲートの場所を見つける事も出来るでしょう。さあスピカ。私の手を取って.......」
スピカは戸惑いながらもクラウディアの手を取りました。二人は両手を固く繋ぎました。
「スピカ。何があっても決して私の手を離さないでくださいね。この繋いだ手は、あなたを現実とALTIMAを結びつける唯一の繋がりになります。
もし離してしまうと、記憶の世界に飲み込まれてしまい、二度と元の世界に戻って来る事が出来なくなるかもしれません。」
「....はい」
「スピカ....安心して下さい。私も決してこの手を離しませんから.....それでは、始めましょう....」
二人の周囲に赤く輝く小さな星が2つ現れ、輪を描きながら周回し始めました。2つの星は、辺りがまるで皆既日食のように闇に包まれていくにつれて速度を上げていき、二人の体をぼんやりとした赤いオーラで包みました。
クラウディアの瞳は赤く不気味に輝いていました。
「さあ行きましょう....記憶の世界へ!」
18. リーネスを追って
全ての風景がぼんやりとした光に包まれ、視界の外側が黒い影に覆われ、視野が少し狭く感じられました。
時折、黒いチェンジマークや縦に伸びる筋、何らかの意味のあるソーラス語の文字や数字がノイズとなって視界に現れてきます。
それはまるで、古いネガフィルムの世界に、自分達が入り込んでしまったかのような光景でした。
直ぐ隣にいるクラウディアの赤い瞳が、不気味なほど鮮明に輝いており、スピカは初めてクラウディアに対して恐怖感を感じました。
「恐れないでスピカ....」
「はい....」
スピカはこの場所に見覚えがありました。ここはエーレスニア・リングの鳥籠の中でした。
目の前に佇む大きな木の陰で、ラジオから流れる音楽を聴きながら楽しそうに唄うスピカの姿がありました。
「入口があるなら、必ずその出口があります。
これは私の予想ですが、リーネスはエルリア・ゲートを既に知っていた.....むしろ、エルリア・ゲートを通ってあなたの元にやって来たのだと思います。」
「そんな.....でも、確かに.......リーネス様がどうやって鳥籠の中に来れたのかはずっと疑問でした。」
「先ずはリーネスの姿を確認しておきましょう。」
―暫くすると、視線の先にぼんやりと青い光の扉が現れると、その中から一人の少女が現れました。
美しい白い翼と、輝くような銀色の髪.....スピカは久々に目の前に現れたリーネスの姿に、思わず叫びました。
「リーネス様!」
スピカは近づこうとしましたが、クラウディアはスピカの手を引いて制止させました。
「スピカ駄目よ。あれは記憶が見せる幻....私から不用意に離れてしまうと、記憶の世界に飲み込まれてしまいますよ。」
「そう....でしたね....ごめんなさい」
スピカは哀しそうに俯きました。
「スピカ.....大丈夫ですよ。私が必ずあなたを本物のリーネスの元に導きますから。
それにしても......リーネスは私と同じ髪の色なんですね。瞳の色もそっくり......」
スピカは改めて、リーネスとクラウディアには多くの共通点があると思いました。
二人には何か繋がりがあるのだろうか....スピカはクラウディアをじっと見ながら、リーネスを面影を見出そうとしていました。
「でも違うのはあの美しい白い翼.....私も、本当はああいう白い翼が欲しかったんですよ.....」
クラウディアは少し哀しそうに言いました。
「クラウディアの翼だってとても綺麗ですよ。」
スピカは何を思ったのか、無意識にそう呟いてしまいました。
はっと我に返り、恐る恐るクラウディアの方を向くと案の定、瞳を輝かせて嬉しそうにスピカを見つめていました。
「ねえ? 今何て言ったのですか? ねえねえ? もう一度言ってください」
クラウディアはわざとらしく頬を赤らめて言いました。
「いいえ、なんでもありませーん」
スピカはぷいっとそっぽを向いて、棒読みで答えました。
「あらあら素直じゃないんですから.....さあ、探すべき人は見つかりました。今度はあの子の足取りを追っていきましょう。」
―二人の周囲を、まるで風を切るかのように数多の記憶の映像が飛び交っていきました。
その中からリーネスの姿を捉えた記憶が1つ1つ選び出され、それらは目の前で1つの螺旋状に繋がっていきました。
クラウディアはそれを見て、首をかしげて言いました。
「妙ですね....リーネスの軌跡はこのゲートウェイアーチから始まり、まるでコマ落としのように時と場所を移動し、あなたの目の前から消えた所で終わっています」
「それはどういう事でしょうか?」
「俗に言えばテレポート。この世界でそのような移動が出来るものは、クラックスの転移ゲートを覗けばただ一つ。ゴーストだけです......」
「ゴースト.....」
「やはり相手は星の旅人.....一筋縄で後を追うのは難しいですね。記憶を時系列に抜き取って調べていきましょう」
―最初に現れたのは、ソルナティエナの記憶でした。
その場所は二人とも見覚えがありました。廃業前のホテル”ザ・ベルナルデ・ソルナティエナ”の華やかなコンコースでした。
巨大なシャンデリアで照らされた螺旋階段を、美しいドレスを身に着けたリーネスが白い翼を広げながらゆっくりと降りてきました。
その優美な姿にスピカは思わず見惚れてしまいました。
「リーネス様.....」
「スピカ....その表情、素敵ですよ?」
「な!?....ち、ちがいます」
スピカは恥ずかしくて赤面してしまいました。
「ふふ.....可愛いんですから」
リーネスは螺旋階段を降り切ると、深刻そうな話をしていた初老の男達の前で一礼し、西側通路からコンサートホールへ向かっていきました。
クラウディアは哀しそうに言いました。
「これはNEBO歴209年、11月4日の記憶。すでに住人の大半がこの地区を離れ、閑散としたこのホテルで最後のオペラ公演が行われました。
あの二人はホテルのオーナーと、かつて名をはせたメディア王ジーグフェルド。実はこの3日後、オーナーが自殺。ジーグフェルドは謎の言葉を残し、1か月後に死去。
これはザ・ベルナルデ・ソルナティエナ最後の栄光......」
それを聞いてスピカはとても悲しくなりました。
―次に現れたのは、雲海の上を航行する巨大飛行艇の記憶でした。
リーネスは広い展望デッキから群青色の空と、アクアブルーに輝く青い星=オールドホームを悲しそうに見つめていました。
「これはヒンメル号。かつてソルナティエナとエーレスニア間を航行していた豪華客船です。」
スピカはとても懐かしい人に会ったかのに感嘆の声をあげて辺りを見回しました。
「ああ.....DIVAの姉妹船ヒンメル号.....この艦には人工妖精ルーリエが居ました。」
「スピカの知り合いだったのですね。」
「はい.....僅かだけでしたが、あの鳥籠で一緒に居た事があるんです。とても明るくて楽しい子でした。ですが......」
「ええ。ヒンメル号はこの3日後、エーレスニア上空で謎の失踪を遂げます。リーネスはまるで、何か不吉なものを呼び寄せているかのようですね......」
「違いますっ」
スピカが抗議しました。
「あらあらスピカってば......」
―場面が切り替わり、今度はエーレスニアの記憶が現れました。
エーレスニア・リングは市街地の上空、外環の直径はおよそ15マイル、都市全体を囲うようにして建造された宇宙ステーション。
リーネスはグランドステーション屋上に広がる美しい空中庭園から、エーレスニアリングを見上げていました。
「これはNEBO歴210年、1月13日の記憶ですね。」
「クラウディア。この時期、エーレスニアで大きな出来事はありませんよ。リーネス様は不吉なものを呼び寄せてなんかいません。」
スピカは勝ち誇ったように言いました。
「スピカ。大切な事を忘れていますよ。この日、惑星NR402のテラフォーム計画が中止されました。つまりスピカ......あなたのDIVAへの収容が決定した日です」
「そんな.....」
スピカは驚いて映像の中のリーネスを見つめました。彼女の視線の先を追っていくと、遥か上空.....青き星オールドホームに巨大な機影が横切ろうとしているのが見えました。
「宇宙要塞DIVA.....リーネスの残した記憶には、やはり何か因果があるみたいですね。」
―次に映し出された記憶は、20編成の古風な豪華列車の個室キャビンでした。
リーネスはここでも、哀しそうに窓の外に広がる美しい黄昏の空を眺めていました。
クラウディアは壁に投影されているホログラムインフォメーションを見て言いました。
「これはエヴァンスブール急行。エヴァンスブールとエーレスニアを結ぶ豪華列車です。」
スピカは驚いて言いました。
「これだけ文明が進んでいるのに、まだこのような交通機関が使われているのですね.......」
「エヴァンスブールは懐古主義者の街と云われています。この鉄道事業も彼らが運営しているものなんですよ。
NEBO歴210年6月8日.....このエヴァンスブール行き32号は4日後、奇怪な事件に巻き込まれます。
ノース・リバー・トンネルを抜けた後、車掌が列車の両数が足りない事に気がつきます。
調べてみると14号車が忽然と消え、13号車と15号車が連結されていたんです。
最初から連結されていなかった? ....いいえ、エーレスニアを出発した時に14号車は確かに存在し、そこに乗客が12名いました」
「そんな....では乗客は?」
「ええ、今も行方不明のままです。ヒンメル号の件と同様、この事件も意思を持った記憶.....ゴーストによる神隠しだと言われています」
―最後の記憶は、列車の終着点である最西端の街エヴァンスブールでした。
放射状に運河が張り巡らされ、その間にタイル張りの道路やレンガ造りの建物、白い壁と赤い三角屋根の家々が立ち並んでいました。
それは遥か昔.....ソーラス人達が宇宙進出する以前のオールドホームへタイムスリップしたような印象を与えていました。
リーネスは狭い路地の中へと入っていきました。その先には四方がレンガ造りの建物に取り囲まれた庭園がありました。
庭園の中には美しい泉があり、石造りの階段が水の底へ向かって続いていました。
リーネスは階段をゆっくりと降りて行き、水面に浸かり.....やがて完全に水の中へと消えていきました。
スピカは慌てて水の中を覗こうとしましたが、まるで鏡面のように空を映し出し、リーネスの姿を確認する事はできませんでした。
「......残念ですが、もうこれ以上はトレース出来ませんね。リーネスの記憶は一旦ここで消滅し、次に現れるのがスピカの目の前です。」
「この泉の中には一体何があるのでしょうか。」
「ALTIMAに築かれた、この街の裏側の世界。エヴァンスブールは街そのものがトーテムネームを持つ、リコレクター達の隠れ里でもあるんです。
恐らく、エルリア・ゲートがあるのはこの泉の向こう側.....あとは行って確かめましょう。」
―記憶の世界から離脱する際、スピカは落ち込んだように俯いて言いました。
「私は.....リーネス様の優しい笑顔......明るくて、夢見る少女のように幸せそうな表情しか知りませんでした。
ですが、これまで見てきた記憶の中のリーネス様は、ずっと何かを悲しんでいるかのよう....」
そんなスピカの様子を見て、クラウディアは優しく微笑んで言いました。
「スピカ。きっとあなたとの出会いが、リーネスの心を変えたのかもしれませんね。」
「.....クラウディア」
スピカは少し恥ずかしくなりました。
「.....ふふっ これでスピカちゃんの好感度がアップです」
「今ので下がりました」
「あうぅ....」
がっくりするクラウディアを見て思わずスピカはクスッと笑ってしまいました。
クラウディアがお道化ながらも気を遣ってくれている事が、スピカは内心とても嬉しかったのです。
19. 逃げ込む場所
―ALTIMAが消滅し、辺りに群青色の空が戻りました。
相変わらずハンスはパタパタと二人の周りを不器用に飛び回っていました。
「さて.....ここからエヴァンスブールは遠いですよ。長い旅になりそうですね。」
「....クラウディア。本当に良いのですか? 私と一緒では、あなたもきっと危険な目に......」
「危険には慣れっこです。私もエルリア・ゲートを一目見てみたいですし.....それに冒険を共にする間に、スピカが私の事を好きになってくれるかもしれませんし。」
「もう....結局そういう事を言うのですね.....」
―突然、ハンスの動きが止まったかと思うと、そのまま空中で静止しました。
「あら......早速、お出ましみたいですね」
クラウディアの視線の先には、黒服の男が立っていました。
それは以前、スピカを追っていたリクスダーゲンのエージェントの一人でした。
背中には歪な形状の擬態翼が付けられ、円縁のサングラスをかけた男は、クラウディア達に向けて手をかざしました。
「スピカ....私の傍から絶対に離れないで下さい。」
「はい!」
クラウディアの瞳は再び赤く輝いていきました。スピカがクラウディアの手を握ると同時に、
その場の空間全体がまるで映画の場面が切り変わるのように、一瞬で黒い雲と灰色に覆われた空間に変貌しました。
頭上から夥しい数の赤い火の粉が降り注ぎ、周囲のビルは無残に破壊されて瓦礫と化していました。
.....それは"戦争"の記憶でした。
黒服の男の背後から無数の戦闘ロボットが現れたと思うと、クラウディア達に向けて一斉に砲撃を浴びせました。
凄まじい閃光に包まれたと同時に辺り一帯を爆風で吹き飛ばしました。
黒服の男はサングラスを取り、勝ち誇ったように笑みを浮かべました。
―どこからともかくトランペットの音色が聞こえてきました。
それはとても哀しく、そして心を震わせる旋律.....まるでこの絶望的な世界に捧げるレクイエムのようでした。
ALTIMAが一瞬で切り替わりました。
背後に巨大な時計盤の黒いシルエットが現れ、その先に古いネガフィルムのようにくすんだ映像が流れていました。
黒服の男は驚愕で目を見開きました。その映像は.....彼自身の記憶だったのです。
―そこは美しい湖を一望できる高台に位置する、静かな墓地でした。
沢山並ぶ墓標群の中で祈りを捧げている若い男性がいました。彼の目先の小さな墓標にはこのように刻まれていました。
"ソフィア・レオーネ"
―場面が切り変わり、そこはオールドホーム北部の大都市ルーヴェンの繁華街。
薄暗いBARのテーブル席で、男は四角いボトルの蒸留酒をラッパ飲みしていました。
向かい側の席には、黒いスーツと山高帽を被った身なりの良い初老の男性が座っています。
初老の男性の指には、シューガルデン皇国の紋章が刻まれた指輪をはめていました。
「これは君にとって、人生を変える最後のチャンスだ。」
「で、そのリコレクターっつう力を俺に与える代わりに、一体何がお望みだ?」
「君は我々の手駒として、政府の仕事を引き受けて貰う。勿論、少々汚いものもあるがね......」
「そりゃご立派な事だ.....いいぜ乗った。俺はその力を持てば、記憶の世界で好きな酒も、好きな女も.....何でも欲しい物が手に入るわけだ。」
「......感謝する。」
初老の男はニヤリを笑みを浮かべました。
―その後、男にはリコレクター能力の移植が行われ、背中に奇怪な翼が取り付けられました。
黒いマントで身を包み、リクスダーゲン直属の”掃除屋”となった彼は、命じられるまま数多くの暗殺任務を請け負ってきました。。
しかしその一方で、男はリコレクターとして開花した記憶使いの力を、別の事に利用していました。
―そこは再び湖を一望出来る高台。夜空一面が星々で彩られ、湖面が青白く輝やいていました。
男の傍らに、栗色の髪の美しい女性がいました。
彼女は男に寄り添って言いました。
「エミリオ.....ずっと傍に居て欲しい.....」
男は密かに、亡くなった妻との幸せな記憶を呼び出し、そこに逃げ込む場所を作っていたのです。
―再び時計盤の空間に戻りました。
「トーテムネーム.....エミリオ・レオーネ。それがあなたの名前ですね?」
エミリオの背後にはトランペットを抱えたクラウディアが立っていました。スピカはクラウディアの両肩に手を置き、黒い翼の背後から固唾をのんで見守っていました。
エミリオは目を見開き、絶望した表情で叫びました。
「やめろ....俺の記憶を見るんじゃねえ!そいつは俺のものだ!ソフィアぁ!」
エミリオは苦痛に悶えながら、妻のいる記憶の映像の中へと駆けていき、その姿はフッと消えていきました。
「クラウディア....一体何が起きたのでしょうか」
「彼は記憶が作り出した虚像の世界へ、メモリスベクターを使わないまま飛び込んでしまった.....もう二度と、元の世界に戻る事は無いでしょう。」
「そう.....だったのですね。」
スピカは何とも言えない哀しい気持ちになりました。
「記憶から生み出された偽りの存在だったとしても、彼にとってソフィアは全てだった.....心の拠り所だったのでしょう。
それが彼のリコレクターとしての力の源であったと同時に、身を亡ぼすきっかけとなった。
思い出は時として、心を闇へと誘い込むんです。」
20. トーテムネーム
二人はプロムナード沿いの小さなカフェのテラス席でお茶にしました。
先ほどからぼーっとして考え込んでいるスピカを見て、クラウディアは言いました。
「.....ねえスピカ。気になる事があるなら、ちゃんと言って下さいね。」
スピカは申し訳なさそうに目を逸らして言いました。
初めて見たリコレクター同士の戦いを、どう捉えるべきか、どう理解すればいいのか困惑していました。
そんなスピカの心境を悟ったかのように、クラウディアは紅茶に移る自分の姿を見て言いました。
「私達リコレクターは複数の名前を使います。1つは一般的に使われる自身の名前と、もう一つがトーテムネーム。」
「トーテムネーム.....」
クラウディアが黒服の男のトーテムネーム=エミリオの名前を呼んだ事で、リコレクター同士の戦いに決着がついた事を思い出しました。
「トーテムネームとは、リレコクターが第2階層以上の世界に存在する数多の記憶を自由自在に操る為に使う通り名。
数多の記憶とは、勿論リコレクター本人も例外ではありません。
相手のトーテムネームを掌握すれば、相手の全てを操る事が出来る......それは、リコレクター同士の戦いにおいて勝利を意味します。」
「リコレクター達は記憶を実体化させて攻撃するだけでなく、トーテムネームの探り合いもしているという事ですか?」
「そうですよ。だからリコレクターの中には、トーテムネームと自身を結びつける要素を極端に減らし、トーテムの独立性を高める方もいます。
ただし...トーテムを強大にし過ぎると、それは分離して意思を持ち、意思を持ったゴーストとなってしまう危険性もあります。」
「リコレクターがゴーストに.....リコレクターはどうなってしまうのですか?」
「人格が、ゴーストに乗っ取られてしまいます。」
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