プロローグ
―それは遥か昔......ソーラス人達によって科学技術が飛躍的に進歩する前の時代に遡ります。
大都市ルーヴェンの市街地では、三角屋根とレンガ造りの古風な家々の間を埋めるように鋼鉄の骨組みと配管とおびただしい数の歯車が取り付けられ、未熟ながらも機械産業が生活に根付いてきた事を物語っていました。
露骨な機械仕掛け乗り物が石畳の道をあわただしく行き交う繁華街より少し離れ、今にも機械文明に飲み込まれようとしている雑木林の中の小道を、一人の妖精の少女が寂しそうに歩いていました。
長い銀色の髪で顔半分を覆い、白いシンプルなローブを身にまとい、背中には美しい銀色の羽が生えていました。
少女は何かに憑りつかれたように、市内の様々な場所を巡り歩いていました。
道行く人々が物珍しそうに見つめていました。
「おお、妖精とは珍しい....」
「まだこの街にもいたのね.....」
しかしそのような人々の視線を他所に、彼女はただ無心に歩き続けました。
今は廃虚となった小さな劇場、中央広場の大きな噴水、もはや時代遅れで見捨てられつつある魔法学校の錆びついた門、そして最後にルーヴェンの灰色に染まった市街地を一望できる時計塔へやって来ました。
かつてそこにあった過去を思い出すかのように、彼女は悲痛な表情で街並みを見下ろしていました。
少女がアパートの一室に戻った頃には、すっかり日が暮れていました。
机の上には小さな杖が置かれ、傍らには埃を被った”魔法”に関する著書が幾つも並んでいました。手前には写真がたてかけられており、仲の良さそうな二人の少女が映っていました。
一人は彼女自身であり、もう一人は亜麻色のおさげ髪の小さな杖を手にした可憐な魔法使いの少女でした。
少女は机に立てかけられていた写真を取りました。暫く眺めていると、涙が額を伝ってこぼれ落ちていきました。
少女はかすれた声で泣いていました。銀色の羽が哀しそうに揺れていました。
泣き続け、やがて涙が枯れ....放心した後、彼女は鍵を2重に掛けられた引き出しを開け、手書きで書かれた1冊のノートを取り出しました。
表紙には古いソーラスの書体で”Heart of Darkness”と書かれていました。
「....アリエルがいない世界なんて.....もう私には....」
少女はそのノートと机に置いてあった杖を持って部屋を出て行きました。
夕闇に染まった不気味な雑木林を抜けると、その先には広大な更地がありました。更地の中心で立ち止まると、震えながらノートを開き、杖を掲げて魔法を詠唱しはじめました。
ノートから眩い閃光を放つ光の球体が現れました。光はみるみるうちに大きく広がり、少女の身体を包み込みました。
突然、周囲の音がフッと消え、視界の空間がぐにゃりと歪みはじめました。
少女は呆然とその光景を見つめていました。
背後から不気味な暗闇が迫ってきました。漆黒の世界が少女の身体を徐々に包み込んでいきます。
少女は恐怖に怯え逃れようとしましたが.....やがて諦めたように瞼を閉じ、闇の中へと消えていきました。
少女の身体はあらゆる光と重力から解き放たれ、闇の奥へ......どこまでも果てしなく落ちて行きました。
―気がつくと、周囲の風景が一変しました。
非常に強い風が轟音を立てて吹き荒れています。
周囲には見た事も無い建造物の瓦礫と骨組みが無造作に周囲を取り囲んでおり、黒く焼け焦げたかなくそが辺りに散らばっていました。
空を見上げると、分厚い雲の合間に無数の流星が降り注ぎ、地平線の彼方を眩い光で染めていました。
流星群が降り注ぐ空の天頂を見上げると、赤く染まった不気味な惑星が、まるでこちらを睨みつける瞳のように覗いていました。
少女は怖くなり、すぐに視線を逸らしました。すると、目先には環状の構造物が取り囲むとても大きな塔が見えました。
それは雲よりも遥かに高く突き出し、星々にさえ届くかのような高さでした。
他の建物がすべて荒廃した瓦礫と化している風景の中で、ただそれだけが不気味に佇んでいました。
少女はそれが何であるかを察したように呟きました。
「アリエル.....私ね、”嘆きの塔”に来れたよ.....」
少女は全てを諦めたかのようにクスッと笑いました。
「悲しみの闇にとらわれた妖精が行き着く、虚無の世界.........これで....よかったんだよ。これが、私の終着点.....」
少女は塔に向かってゆっくりと歩いて行きました。瞳には涙が溢れて零れ落ち、灰の積もった大地に落ちていきました。
少女は近くに倒れていた石碑が気になりました。涙を拭い、ゆっくりと杖をかざして魔法を唱え、そこに刻まれた文字の形を蘇らせました。
「(”エーレスニア・ファーガソン・グルーベン”....ソーラス語? それにこれは....年号かな?)」
少女は涙を拭ってもう一度それを見た瞬間、血の気が引いていきました。
「.....ソーラス連邦暦2755年.......ここは....私達の未来?」
少女は周囲を見渡し、あまりのショックに言葉を失いました。
”嘆きの塔”の正体とは、遥か遠い未来.....自分達の世界の壮絶な結末であった事を。
しかし、少女は力がフッと抜けていき、やがて冷静に戻りました。
「....ううん、もういいの。私にとって、未来は何の意味もないよ。もう....何もかもが、失われてしまっても......」
―突然、辺りに雪が降り始めました。
背後に人の気配を感じて後ろを振り返ると、そこにはエメラルドグリーンの光にぼんやりと包まれた妖精が立っていました。
美しく輝く長い金髪をなびかせ、哀しそうな瞳でこちらを見つめていました。
「綺麗....だね。あなたは...誰?」
「あなたをずっと待っていましたよ......レイニー」
1. 霧の古城
ガーシュタイン城の外は分厚い霧に覆われていました。
リヴェットは不安そうに窓の外を見つめていました。背中の白い翼が怯えるように震えていました。
リヴェットにとってこのガーシュタイン城は、第2の故郷のように親しい場所になりつつありました。
しかし今日のように天候が崩れる日は滅多に無く、リヴェットはとても不安そうに窓の外を眺めていました。
リヴェットの傍にいつもくっついている人工妖精の少女アトリアは、退屈そうにリヴェットの白い翼に顔をうずめて遊んでいました。
隣の客間から、ほのかに甘い香りがしてきました。
リヴェット達はその香りにつられて入ってみると、おいしそうなケーキと焼き菓子がテーブルに並べられていました。
リヴェットは目を輝かせて、嬉しそうに翼をパタパタさせながら見つめていました。
傍にくっついていたアトリアもまた同じように目を輝かせていました。
「リヴェット!これはもしかして!」
「お....おいしそうだね....」
リヴェット達が見惚れていると、背後からぬっと黒い翼の少女.....クラウディアが現れて、ニヤニヤを笑みを浮かべながら近づいてきて、リヴェットに思いきり抱きつきました。
「えいっ」
「きゃうっ」
「あうぅ.....クラウディア....」
「だ...だめです!」
アトリアが必死に引き離そうとしました。
「うふふ....捕まえましたよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい....」
リヴェットはよくわからないまま謝りました。
「リヴェットちゃんは甘い物にすぐつられて、隙だらけになりますからね。ずっと狙っていたんです」
「あうぅ....ちがうよぉ」
「本当に....いつも抱き心地のいい翼ですね。それに良い匂い。もう離しませんよ.....リヴェ子ちゃん」
クラウディアは先ほどのアトリアと同じ様に、リヴェットの白い翼に顔を埋めて言いました。
「あうぅ....変な名前つけないでよぅ...」
リヴェットの顔は恥ずかしさで真っ赤になりました。
「お茶が入ったので呼びに行こうと思ったら.....」
緑色に輝く羽の妖精....スピカがティーカップを乗せたトレイを持ってやって来て、半ば呆れた表情で見ていました。
「スピカさん!クラウディアがリヴェットをいじめてます!」
「あら誤解ですよ。つまみ食いの犯人を捕まえていたところです。ね?リヴェ子ちゃん~」
「ちがいますよぅ.....」
リヴェットは恥ずかしさで泣きそうでした。
スピカはトレーをテーブルに置くと、傍に来てリヴェットとアトリアの頭を優しく撫でて安心させ、クラウディアの頭をかるく叩きました。
「いたいです.....」
クラウディアは頭を抑えて言いました。
「クラウディアのそういう子供っぽい所は長い歳月が経っても変わりませんね....さあ皆さん!お茶にしましょう!」
2. ファーナ
リヴェットはふと、スピカの隣の席にもう一人分のケーキと紅茶が用意されている事に気づきました。
「(....あれ? 誰かもう一人来るのかな?)」
リヴェットの視線を察知したクラウディアは意地悪そうにクスクスと笑いながら言いました。
「あらリヴェ子ちゃんってば、食いしん坊ですね~」
「あうぅ....違うよぅ。....その、誰が来るのかなって...」
「実は皆さんに紹介したい子がいるんです。ファーナ、こっちへいらっしゃい」
スピカが後ろを振り返って呼びかけましたが、誰も来ませんでした。
「あら....どこに行ってしまったのでしょう。ごめんなさい。私、あの子を探してきます」
「私も行きますよスピカ」
スピカとクラウディアが席を外しました。
二人が出て行って暫くすると、扉の背後から見慣れない妖精がひょこっと現れてこちらをじっと覗き込んでいました。
アトリアよりも少し幼い少女の容姿で、背中には赤い羽が生え、顔半分を隠した長い銀髪から赤い瞳をのぞかせてリヴェットを見つめていました。
「(あれ?この子がファーナちゃんかな?)」
リヴェットは少し不思議に思いながら、幼い妖精に近寄っていきました。
妖精は扉を掴んだままじっとリヴェットを見つめていました。
「えと.....は、初めまして」
リヴェットは少し緊張しながらぎこちなく挨拶しました。
「.....」
幼い妖精は暫くの沈黙の後、突然リヴェットに抱きついてきました。
「え? あ、あの....どうしたの?」
リヴェットは幼い妖精の頭を優しく撫でました。
アトリアが慌てて二人の間に入ろうとしました。
「だ....だめです!」
アトリアは涙目になって幼い妖精を引き離そうとしましたが、彼女は必至にしがみついたままでした。
「そんな所にいたのですね」
クラウディアとスピカが戻って来ました。
「ごめんなさい....その子ったら、目を離してしまった隙にどこかへ行ってしまったみたいで.....」
スピカが申し訳なさそうに言いました。
クラウディアはリヴェットに必死にくっついている妖精達を見てクスクスと笑いました。
「ふふ....リヴェ子ちゃんはモテモテで羨ましいですね」
「うぅ....駄目です。リヴェットは私のです....」
ファーナも加わり、ようやくお茶会が開かれました。
スピカが焼いてくれた焼き菓子やケーキを、リヴェット達はとても美味しそうに食べていました。
「おいしいですか?」
「はい」
リヴェットはスピカに笑顔で答えました。
「よかった....」
向かい側ではクラウディアが少し拗ねながらケーキを食べていました。
「スピカってば、リヴェ子ちゃん達にばかりとても優しいのですね。贔屓です」
「クラウディアが悪戯ばかりするからですよ」
「スピカが相手してくれないから、愛に飢えているんですよ」
「あらクラウディア、そういう事を言いますか」
二人の夫婦喧嘩のようなやり取りをリヴェット達はクスクスと笑いながら見ていました。
リヴェットのすぐ隣にくっついているファーナも焼き菓子を夢中になって食べていました。
「おいしい?」
リヴェットはファーナに優しく語りかけました。
「.....」
ファーナは赤い瞳でじっとリヴェットを見つめていましたが、彼女は依然と黙ったままでした。
「この子、感じ悪いです」
隣で敵を監視するように睨んでいたアトリアが不機嫌そうに言いました。
「アトリアちゃんってば.....」
リヴェットはアトリアの頭を優しく撫でてなだめました。
「ファーナは喋る事が出来ないのです」
スピカが申し訳無さそうに言いました。
「ですが、ちゃんと私達と同じ様に心は持っているんです。私はコアと通じてその子の意思が分かります。おいしいって。ありがとうファーナ」
スピカは優しく微笑みました。
それから暫くして、スピカは険しい表情で言いました。
「ファーナは、ある軍用機を集中制御する目的で作られた軍事用の人工妖精なんです」
「え?」
リヴェットとアトリアは驚いてファーナを見つめました。
ファーナは全く表情を変えず、甘える子供のようにリヴェットの腕にくっついていました。
「そう....だったんですね」
リヴェットはとても悲しく思いました。幼い子供のように無邪気になついている妖精が、そのような目的で生まれた事を。
重々しくなった空気を、クラウディアの明るい声が遮りました。
「あらあら...折角のお茶会なんですから、もっと楽しくしましょう。
リヴェット。安心してください。もうその子は誰かを傷つける事はありませんよ」
「....そうなの?」
「その子にはね、とても純粋で優しい女の子の魂が宿っているんですよ。そう、とても優しい妖精が.....」
クラウディアはスッと立ち上がるとソファの後ろにまわり、手を伸ばしてリヴェットを抱きしめました。
「あぅ?」
「ねえリヴェット。明日はその子を連れて少し遠くに出かけましょう」
「え?...うん。何処に行くの?」
「エーレスニアです」
3. 墓標
リヴェット達を乗せた飛行艇は、眼下一面に広がるひまわり畑、鏡のように空を映し出す湿地帯の上空を殆ど無音のまま、凄まじいスピードで飛行していき、その日の正午にはエーレスニアに到着しました。
ここもソルナティエナと同じ様にひまわり畑が大地を覆い尽くしており、所々から黒光した尖塔-廃虚のビル群がまるで卒塔婆のように突き出していました。
しかし何よりもひと際大きく、はるか成層圏まで聳え立ち、それを囲むように広がるリング状の構造物が付いた建造物-エーレスニアリングの存在が、その場所が確かにエーレスニアである事を示していました。
それはとても雄大で、とても儚く、かつて存在した文明世界の墓標のようでもありました。
飛行艇は真っ直ぐ、中央の第8環区画の上層エリアへ向かって行きました。
第8環区画の上層階には研究施設のようなセクションがありました。永久機関によるエネルギー供給とインフラ保守システムが現在も稼働しており、決して帰って来る事の無い主達を今も待ち続けていました。
クラウディアに誘われるまま橙色に輝く照明が並ぶセキュリティ区画の通路を進んでいくと、やがて鳥籠のような形をしたとても広い円筒状の空間にたどり着きました。
かつては緑が生い茂って美しい庭園だったと思われるその場所はすっかり荒廃しており、いくつもの灰色の倒木が小さな道を遮っていました。
突然、スピカが心痛な表情で駆け出していきました。
「スピカさん!」
リヴェットは慌てて追いかけていきました。
スピカは一際大きな倒木にそっと手を掛けていました。スピカは泣いていました。
「スピカさん.....。」
いつも穏やかで優しいスピカがこのように悲しむ姿にリヴェット達は動揺していました。
項垂れるスピカを、クラウディアが優しく抱きしめました。
「スピカ.....貴方が勇気を出して旅立ったからこそ、貴方達と私が今ここにいるんですよ。それに、今はリヴェット達だっています.....何もかもが失われたわけではありません。これからまた、新しい世界が作られるんですよ」
第8環区の展望デッキで、リヴェットは少し寂しそうに眼下に広がる形式を眺めていました。
黄金の絨毯のように広がるひまわり畑.....Eternal Memoryと呼ばれる記憶の成れの果てを...。
両脇では妖精達がリヴェットにもたれ掛かるように眠っていました。
背後からクラウディアがやって来ました。
「あ、クラウディア.....その....」
「スピカはもう暫くこの施設を見て廻りたいようです」
クラウディアはファーナの隣にスッと腰掛けました。
「ねえリヴェット。私は以前、別の時間軸の世界でこのエーレスニアリングを訪れた事があります」
「別の時間軸?」
クラウディアはファーナを優しく撫でて言いました。ファーナは気持ちよさそうに眠っていました。
「既に忘却の渦へと消えた、この子の生まれ故郷。そう......この世界は元々、枝分かれして生まれたものなんです。
ねえリヴェット。タクトにまつわる物語の続きは、ここでお見せしましょう」
4. フェアリーシップ
それは両脇に大きな翼が取り付けられた、古風な形状をした中型の飛行艇でした。
フェアリーシップと呼ばれるその飛行艇は、人工妖精によってエンパス機関がコントロールされており、NEBOでは大小様々なフェアリーシップが行き来していました。
特に小規模輸送を目的としたフェアリーシップの飛行経路は、彼女たち独自で作り出したエンパスラインによる航路を取っており、外部から追跡されずエーレスニアへ向かうには最適な手段でした。
フェアリーシップはNEBOに広がる湿地帯の上空を飛び、まっすぐ東の方角へ向かっていました。
見渡す限り群青色の空が広がり、北側の空には入道雲の向こうから覗くように青々と輝く惑星=オールドホームが輝いていました。
スピカは窓の外に広がるその光景を、少し寂しそうに眺めていました。それを見て隣に座っているクラウディアが言いました。
「ねえスピカ....あの子達の事を考えているのでしょう?」
「はい....」
リリとフランベルの一件から既に1ヶ月が経ちました。
ガーシュタイン城を去る時、そしてベルナルデ・アパートを出発する時、仲良くなった可愛らしい妖精達がスピカとの別れを拒絶し、可愛らしいバリケードを作ったり、いつまでもくっついて離れなかった事が少し心残りでした。
「私もね、出来ればスピカにはずっとあそこに居て欲しかったんですよ」
「クラウディアが言うと、何だかやらしい感じです」
「あら.....乙女の純粋な想いなのに」
「本当は私も....ずっとあの子達の傍に居たかったんです。でも.....」
「ええ、分かっています。スピカは必ずリーネスを探さなければいけません。きっとその子も、スピカが来るのを待っている事でしょう。
でも.....忘れないでスピカ。貴方には帰れる場所があるという事を」
翌日の早朝、彼女達を乗せたフェアリーシップはエーレスニアに到着しました。
朝方の陽の光を浴びて、雲の上に浮かぶ巨大なエーレスニアリングが一際赤く輝いていました。
フェアリーシップはまるでエーレスニアリングからの視線を避けるかのように、昨夜よりもずっと低い高度を取っていました。
フェアリーシップはそのまま放射線状に広がるエーレスニア市街地の北西に位置する小さな発着場に向かって、ゆっくりと降下していきました。
5. エーレスニア
ソルナ大陸の西海岸に位置する軍事都市エーレスニア。
その中心で天を貫くように聳え立つ軌道エレベーターを取り囲むように浮遊する環状要塞「エーレスニア・リング」は、このNEBOで最も高い位置にあり、かつ最大規模の建造物です。
エーレスニア・リングは宇宙/航空ステーションだけでなく、司法機関、先端研究施設、TI社(テリーサ・インダストリーズ)私設軍の基地など多くの機関を兼ね揃えていました。
眼下に広がる市街地も含めエーレスニアはNEBOで最大の軍港都市であり、すべての産業がエーレスニア・リングと深く結びついていました。
クラウディア達はノースウエスト94ポートでフェアリーシップの妖精達と別れた後、エーレスニア5区商業エリアにある「ファーガソン・グルーベン」と呼ばれる複合商業施設に向かいました。
スピカはエーレスニア・リングがよく見える場所に行きたいと願い、二人は透明なガラス張りの広いエレベーターに乗り、最上階の空中庭園にやって来ました。
エレベーターを降りるとすぐ目前に巨大なエーレスニア・リングの支柱が現れ、上空を見上げると直径15マイル以上もある巨大な環状の人工物が都市全体を囲むように空に浮かんでいました。
スピカは展望デッキに駆け寄ってエーレスニア・リングを見上げました。エーレスニアリングの下は強い風が吹いており、スピカの美しい金髪が風になびいて大きく広がりました。
「ここから見たら、こんなにも大きいのですね.....」
「よく言うでしょう。下から見上げると何でもより大きく見えるものですよ」
クラウディアはスピカの隣に来て、暫く二人は無言でエーレスニア・リングを見上げていました。
ようやく追いついたハンスは解放感を得たのか、嬉しそうにクラウディア達の周りをパタパタと飛び回っていました。
「.....このエーレスニアの空には、目には見えない空間の歪みがあります。それによる飛行艇の失踪事件も多く発生しています。一番有名なのが、あのヒンメル号の失踪事件ですね」
「ルーリエ.....」
スピカはまるで呼び掛けるように、かつて行方不明となった妹の名前を哀しそうに呟きました。
「この空域には強大なALTIMAと結びつく何かがあります。貴方の前に現れたリーネス。彼女ならきっとその正体を....この空の裏側を知っている事でしょう」
スピカは哀しそうな表情で、かつてリーネスと自分が共に時間を過ごした第2環区を見上げました。
リーネスを追って飛び出した自分の判断が本当に正しかったのか。スピカは少し不安になりました。
クラウディアがそっとスピカに抱き付いてきて言いました。
スピカはびっくりして赤面してしまいました。
「ねえスピカ。貴方がDIVAから逃れたのは正しい判断だと思います。
あのまま鳥籠に飼われていれば、きっと身勝手で欲深い権力者の姿を目の当たりにする事になりましたよ。
その時、誰よりも正義感と責任感が強いあなたは同胞たちを助けようとして、きっと最後には私達ソーラス人....いえ、全ての人類と敵対する事になったでしょう。
もし私達が貴方とDIVAに戦いを挑めば、私達は誰一人としてこの世界で生き残る事は出来ないでしょう」
「そんな....物騒な事を言わないで下さい」
スピカは悲痛な表情で言いました。
「ごめんなさい。でも、それはあくまで過去の可能性の話。今はもう、スピカちゃんは私のものですから.....そんな事はさせませんよ」
クラウディアが小さな手でドレス越しから胸を触ろうとしました。
「きゃっ....こら!やめなさい!」
スピカは慌ててクラウディアの頬をぎゅっとつねりました。
「いたい!いたいでふ!」
「クラウディアは真面目な話をしていても、全く油断も隙もありませんね.....さ、もう行きましょう」
「ちょっとスピカ、引っ張らないで.....」
―丁度その頃、クラウディア達の姿をエーレスニア・リング第2環区の屋上から見下ろしている人物がいました。
黒いコートと帽子を身に纏い、赤いマフラーをなびかせた、中性的で不思議な少年(少女?)でした。
橙色の髪から蒼い瞳を輝かせ、憐れむようにクラウディアを見つめていました。
「.....楽しそうだね。でも君には、あの子がやり残した仕事を継いで貰うよ。そう、これは君の宿命なんだ」
マントから出した手には、赤いタクトが握られていました。
少年は赤いタクトを空に向けて掲げると、先端の赤い閃光が空高く舞い上がり、流星の様になって四方に散らばっていきました。
「.....行こうか、ルイザ」
少年は後ろを振り返り、その場を後にしました。コウモリ型のロボットがパタパタと少年の後を追いかけて行きました。
6. エルヴァンス急行
エルヴァンス急行はエーレスニアから海岸線を北上し、大陸北部の都市エヴァンスブールへ向かう夜行列車で、NEBOに唯一存在する鉄道輸送でした。
ホームには先端技術都市エーレスニアには似つかわしくない、旧時代を彷彿とするノスタルジックな装いが至る各所に施されていました。
巨大なホログラム運行掲示板を眺めていたクラウディア達は途方に暮れていました。
「出発までまだ4時間もありますね...」
「例の失踪事件を境に、この列車の利用者は激減しているようですね。本数は1日に数回程度....」
クラウディアは駅に隣接するホロシネマ劇場を見つけて嬉しそうに言いました。
「ねえスピカ、折角ですしホロシネマを観て行きませんか?」
「クラウディアってばいつも呑気ですね....私達は追われている身なのですよ?」
スピカは呆れてしまいました。
「下手に動き回るよりは良い隠れ蓑になります。ほらあれ.....」
クラウディアが指差した先には現在公開中のホロシネマのトレーラーがホログラムスクリーン上に映し出されていました。
「これが観たいです」
クラウディアが選んだのは”エヴァーノーツ7 -紅き鋼のアルベルティ-”というタイトルのB級スペースオペラ作品でした。
「あら、もう7作目なのですね。カーク・エヴァ―ノートの戦いも最終局面。 うふふ....とても楽しみです」
「いやです」
スピカは断固拒否しました。
「うぅ....残念です。それならこれはどうでしょう」
クラウディアが指差した先にはファンタジー作品”エルデローテンの魔法使い”のトレーラーがホログラムスクリーンに映し出されていました。
スピカは少し笑みがこぼれました。
「これは....古典作品ですね。鳥籠にいた頃にこの本をよく読んでいました」
興味津々のスピカを見てクラウディアは嬉しそうに言いました。
「うふふ....これに決まりですね」
7. 記憶の檻
観客はクラウディア達以外には誰も居なかった為、旧世紀の映画館を模した古めかしいシアターはほぼ貸し切り状態でした。
ハンスは落ち着かない様子で、クラウディアの腕の中でもぞもぞと動いていました。
2時間弱の上映はクライマックスに差し掛かろうとしていました。
黄昏の空をバックに、大きな飛空艇が美しい港町リューベンを離れようとしていました。
デッキの上で、白い翼の可憐なソーラス人の少女アリエルと、シューガルデン皇国から来たフィン王子が夕日を眺めて、互いにキスをしました。
オーケストラのサウンドトラックが壮大でダイナミックな旋律を奏でると、綺麗な手書き風の文字でエンドタイトルが現れました。
白い文字が羅列する古風なスタッフクレジットを眺めながら、クラウディアは言いました。
「今も昔も変わらない愛の物語。それはまるで、永遠に同じ時間軸を繰り返す閉ざされた記憶世界の檻を見ているようですね」
「クラウディアが言うと、冗談に聞こえませんよ」
「うふふ....でも確かに、そのように閉ざされた記憶世界が存在する可能性はあります。
可憐な魔法少女アリエルは、古代魔法ハートオブダークネスの秘密を求めて魔導都市ルーヴェンにやって来ます。
4つの封印を解放、災いをもたらす魔物エルデローテンを倒し、最初は喧嘩ばかりしていたシューガルデン皇国の王子フィンと結ばれます。
恋愛の概念はすっかり変わってしまいましたが、それでも昔からこのような冒険活劇とロマンスは好まれますね」
「クラウディア....私はこの原作を読んでいた時から、どうしても引っかかるものを感じるのです。
理由ははっきりしないのですが.....大切な何かが意図的に挿げ替えられているように思えるのです。
アリエルが古文書を調べている時に出て来る”嘆きの塔”の伝承があります。
妖精が深い悲しみに心を囚われると、暗黒の腕が伸びてきて、この塔に永遠に閉じ込められてしまう....というものです。
エルデローテンの魔物は”嘆きの塔”からやって来た妖精の成れの果てとされていますが、では”嘆きの塔”とは一体何なのでしょうか。
何よりも、ここで”妖精”について言及されているにもかかわらず、この作品には妖精が一切登場しなのが気がかりです。
”ハートオブダークネス”とは、本当に魔物を倒す為の魔法だったのでしょうか......。
終盤に、アリエルがテラスで背中越しで唐突に”ごめんね....”と謝る有名な場面があります。
これはフィン王子に対する台詞とされていますが、私にはそうは思えないのです。アリエルが毎晩手紙を送っている相手は、一体誰なのでしょうか。
孤児院の院長だと云われていますが、それでも毎日送るとは思えません。
クラウディア....私はこう思うのです。この物語には意図的に隠そうとしている真実があるのではないかと......」
―珍しく多弁になったスピカにクラウディアは驚きつつも、やがてクスクスと笑いながら言いました。
「ふふっ.....なるほどね」
「な...なんでしょうか?」
「今のスピカって、まるでリコレクターみたいでしたよ。きっと私の影響でしょう」
「ちがいます」
スピカは赤面して否定しました。
「うふふ...でもスピカ。その感覚は忘れないで下さいね。
ふとした違和感からその先へ踏み込むと、そこに見えていなかった真実が隠されている事がよくあります。リコレクターはよくそのような場所に大切な物を隠すんです」
クラウディアはスクリーンに向き直ると、目を瞑って言いました。
「......ねえスピカ。実は私も同じ感想です。理想的に見えるお話には、必ず作為的な意図が含まれるものです。
もしそれが大衆の記憶....それも、何百年にも渡って語り継がれていくと、それは途方も無く大きな記憶の檻となる事でしょう」
8. オールディーズ・サウンド・アワー
エルヴァンス急行の内部は、蒸気機関が主流だった時代を彷彿とさせる大変古めかしい装いが施されていました。
まるでホロシネマで描かれるミステリー小説の世界をそのまま再現したような雰囲気があり、その趣旨はどこかベルナルデ・アパートにも似ていました。
スピカは不思議そうに個室の内装を眺めていました。
「高度なAIによって管理された世界を嫌い、宗教の理念や心理への回帰を掲げた”回顧主義者”達が集まる街。それが私達の目指しているエヴァンスブールです。
彼らの方言ではラ・エルヴァンスとも呼ばれます」
クラウディアは頭上に投影された目的地のホログラム映像を眺めて言いました。
「古き良き世界に思いを馳せる人々。可笑しな話です。このような古風な列車より、もっと効率的で速い移動手段がいくらでもある筈なのに」
クラウディアがクスクス笑いながら言いました。
「これは後ろ向きのノスタルジーです。でも、いつの時代も旅路はその雰囲気が大切です.....そう、哀愁と浪漫なのですよ」
クラウディアは何故か得意そうに言いました。
「クラウディアが言いたい事が理解できますよ。ですが少し静かにしていてくださいね」
スピカは鳥籠から一緒に持ってきたラジオを傍らに置き、ノイズ混じりに流れてくる音楽をとても楽しそうに聴いていました。
クラウディアが向かい側に座るスピカの隣に腰掛けてきて言いました。
「ねえスピカ....もっと私とお話をしましょうよ」
スピカは瞼を閉じたまま澄まして言いました。
「やらしい事を言ったり、しようとしないと約束をしてくださいね」
「そんな.....私の純粋な想いなのに.....」
クラウディアは悲しそうな表情で泣きつこうとしました。
「そんな顔しても駄目ですからね」
「―ラリー・キングスのオールディーズ・サウンド・アワー。まだまだ続きます」
ラジオから可愛らしい少女の声が響きました。
「あら....ラリー・キングスの番組ですね。スピカってば結構渋いのを聴いているのですね」
クラウディアがニヤニヤしながら言いました。
「むっ これが良いんですっ」
馬鹿にされたと思ったスピカはそっぽを向いてしまいました。
不貞腐れたスピカを見て、クラウディアはあまりの可愛らしさに抱きしめたい衝動を抑える事ができず、両手を広げて抱き付こうとしました。
しかしスピカは瞼を閉じたままクラウディアをひょいと避けると、すかさず背後に廻り、どこからともなくくしを取り出しました。
「クラウディア。髪が乱れていますよ。直して差し上げます」
スピカは強引に、クラウディアの髪の毛をとかしはじめました。
「いたい、いたいです~」
クラウディアは嬉しそうに悲鳴を上げました。
―二人がそうしてじゃれあっていると、ラジオから哀愁漂うトランペットの旋律が聞こえてきました。
「.....あら、Sunset Tracksですね」
「この曲を知っているのですか?」
「ええ。とっても古い映画の曲です。さすらいのトランペット吹きジャックが荒れ果てた大陸を旅をしながら、まだ見ぬFreedomを目指していくお話です。
その映画の冒頭で流れるテーマ曲なんです」
「まあ! そうだったのですね」
スピカはとても嬉しそうでした。
「でも最期は謂れも無い罪を着せられ、トラックに乗った農夫に撃たれて死んでしまうんです」
「....クラウディア。すぐにネタバレする人は嫌われますよ?」
スピカはクラウディアをジトッと睨んで言いました。
「不条理、矛盾、そう...人は自由を求めながら、自由を恐れてしまうんです」
「そうですね。ネタバレされる不条理と自由は私も怖いですね」
「スピカってば、今日は私につれないです」
「知りませんっ」
―フェードアウトするかのように曲が終わると、再びDJのナレーションが入りました。
「ラリー・キングスのオールディーズ・サウンド・アワー....」
ラリー・キングスは男性の名前にも関わらず、それは明らかにクラウディアと同い年くらいの少女の声でした。
「ねえスピカ。このラジオのDJ.....ラリー・キングスの事は気になりませんか?」
「ええ。ラリー・キングスは男性名です。
ですがこの声はきっとクラウディアと同じ年くらいの女の子です。それも一人ではなく、とても仲の良さそうな二人の女の子です。
最初は一人だけだったのに、もう片方の子が思わず声を出してしまって.....今は二人になったのです。
時々間違えて、本名で呼び合う声が聞こえてきて可笑しいんですよ」
スピカはクスクスと笑いました。
次の曲が流れ始めると、スピカは不思議そうに首をかしげました。
「あら?....また同じ曲です。不思議ですね.....今日はもう3回目です」
「.....ねえスピカ。その曲のタイトルを知っていますか?」
「”Tommorow Never End”です....」
スピカはその曲名を口にして、今ここで何が起きたのかを察しました。
「まさか....」
「どうやら仕掛けてきましたね」
クラウディアはカーテンを開き、外の景色を確認しました。
西の空は黄昏に赤く染まり、エーレスニア・リングの雄大なシルエットが不気味に黒く染めていました。
「クラウディア。今ここからエーレスニア・リングが見えるのはおかしいです」
「ええ。これはエルヴァンス急行の路線ではありませんね」
クラウディアはホログラムパネルを操作し、エーレスニア近郊の地図を映し出しました。
「今はここ....ノースリバートンネルを抜けた先から、レネスンド駅手前のポイントから南に延びる引き込み線。
この線路はエーレスニア・オーバーループ・ラインに直結して....再び川を超えて市街地に戻ります。
つまり、この列車はエルヴァンス急行とオーバーループ・ラインを介したルートを廻り続けようとしている....という事です。
私達は既に、何者かが仕掛けたリコレクションに迷い込んでしまったようですね」
クラウディアは個室の外に出ると、車両に掲示されている列車の識別表示を確認しました。
”エルヴァンス急行32号-No.7”
「....どうやら、今私達が乗り込んでいるのはエルヴァンス急行32号の記憶......そう、あの14号車失踪事件に巻き込まれた列車です。スピカ。今すぐ14号車に行ってみましょう」
9. 消えた14号車
クラウディア達は7号車から狭い通路を進み、後方車両へと向かっていきました。
白熱灯を模した橙色の照明が不気味に車内を照らし、車窓へ鏡面のように映し出されていました。
13号車の自動扉を開き、次の車両へ乗り込んだ所でクラウディアは立ち止り、車両番号を確認しました。そこには"No.15"と表記されていました。
二人は前の車両に引き返して車両番号を確認しましたが、そこには"No.13"と表記されていました。
スピカが不思議そうに言いました。
「14号車が....ありません」
「うーん....ねえスピカ。今の時間は?」
「NEBO標準時間で16時34分です」
「事件記録によると、14号車が失踪したと言われる時刻は16時00分から15分間の間。恐らく、”既に消えてしまった後”という事でしょう。
あの曲がラジオで流れたタイミング.....恐らくあれがループの接続点。あの曲が流れる前には、きっと14号車が存在しているのかもしれません。
スピカ。現在地から再びレネスンド駅手前のポイントに入る15分前までに掛かる時間を....
「3時間12分後です」
クラウディアは流石と言わんばかりにスピカに一瞥を送りました。
懐から懐中時計を取り出すと、時刻を3時間12分前に戻しました。
二人は来た道を戻り、7号車の個室に戻りました。
列車は不気味なほど静かでした。列車だけでなくその乗客もすべてがゴーストであり、ぼんやりとした影のように映し出されていました。
ラジオの音楽も、今はノイズの中から微かに聴きとる事ができませんでした。
「記憶はあらゆる時空や概念を飛び越える事ができます。それを起点とし、まったく違う並行世界に繋がる事だって出来ます。
このALTIMAはあまりにも狭過ぎます。きっとどこか.....別の世界に繋げる為のトンネルかもしれませんね」
沈黙の中でクラウディアが言いました。
やがて、懐中時計が15時45分を指し示しました。
「時間です。行ってみましょう」
二人の後をハンスもパタパタと追いかけていきました。
13号車を抜けて自動扉を開くと、そこは明らかに他よりも色彩を失った、古代のサイレント映画のように実像がぼんやりとした空間となっていました。
車両番号を確認すると、そこには"No.14"という擦れた文字が見えました。
「遂に来ましたよ.....ここが失踪した14号車です」
「これが.....」
「記憶が薄れてきているのでビジョンが不安定ですね。足元に気を付けてください」
14号車は不気味な間接照明に照らされ、それはまるでロウソクの火のように揺れていました。
個室にはこの車両と共に失踪したと思われる乗客達の姿がありました。
その中には、一人で寂しそうに座っている妖精の女の子の姿もありました。
二人は空いている個室に入り、並んで座りました。
「消えた14号車が果たしてどこへ向かったのか.....その真相をこの目で確かめてみましょう」
「はい」
「スピカ、怖いですか?」
「......少しだけ」
「大丈夫です。この手を絶対に放さないでくださいね」
スピカは無言のままクラウディアの手をしっかり握りました。
10. 荒廃した世界
非常に強い風が轟音を立てて吹き荒れていました。
周囲には灰色に染まった瓦礫と鉄骨の骨組みが無造作に周囲を取り囲んでおり、黒く焼け焦げた金くそがありとあらゆる所に散らばっていました。
分厚い雲の合間に無数の流星が降り注ぎ、地平線の彼方を眩い光で染めていました。
流星群が降り注ぐ空の天頂を見上げると、赤く染まった不気味な惑星が、まるでこちらを睨みつける邪悪な瞳のように覗いていました。
天頂から少し視線を落としていくと.....環状の構造物が取り囲む非常に大きな塔が見えました。
雲よりも遥かに高く突き出し、星々にさえ届く高さの.....それは紛れも無くエーレスニア・リングでした。
「ここは.....エーレスニア?」
スピカには何が起きたのか全く分からず、言い様の無い不安と恐怖を感じていました。
クラウディアが隣にやって来ました。瞳がぼんやりと赤く輝いており、ここが記憶の世界である事を物語っていました。
「どうやら....ここは未来のエーレスニアのようです。ご覧の通り、滅び去った世界。エーレスニアだけではありません。NEBOも、そしてオールドホームも」
クラウディアが赤い星を指差しました。
「そんな......」
スピカはあまりも凄惨な世界の姿に絶望し、その場にしゃがみ込んでしまいました。
「ひどい.....何故このような事が.....」
クラウディアがスピカを優しく抱きしめました。
「あんなにも美しかった世界が、何故このような姿に......」
「落ち着いて下さいスピカ。未来とは言っても、これは記憶の世界。それも、何かの要因によって”正規の時間軸から外れた未来”です。ほら.....あれを見てください」
クラウディアが指差した先には、空一面を覆うかのような巨大な黒い渦が見えました。それは星々などあらゆる光を飲み込み、空間さえも捻じ曲げて吸い込んでいるかのようでした。
「記憶の地平線....忘却が迫って来ています。不安定になった記憶を浄化する、この世界の理の1つです。正規の時間軸から外れた未来が認知されない記憶となり、忘却に飲み込まれようとしているのでしょう」
「何故そのような事が?」
「誰かがこの悲惨な未来の姿を変える為に時間遡行を行った。歴史が変えられたという事です」
「時間遡行.....私達の世界は、この凄惨な運命を逸れたという事でしょうか?」
「ええ、その通りです。ですが....このままでは私達がこの世界と運命を共にする事になります。
スピカ.....さあ立ってください。私達の旅はまだ始まったばかりです」
スピカは頷いてクラウディアの手を取り、一緒に立ち上がりました。
「クラウディア.......取り乱してしまってごめんなさい」
「ふふ....気にしないでください。こうしてスピカを抱き締める事が出来たのですから。ねえスピカ、あそこに何か見えますよ。行ってみましょう」
二人は手を繋いで、列車の車両のようなシルエットに向かっていきました。
―その頃、黒いマントと帽子を身にまとった少年が、エーレスニアリングの第2環区の屋上に腰掛け、眼下の荒廃した黒い大地を見下ろして言いました。
「リーネス.....これは君がやり残してしまった事なんだ。すべてが忘却に飲み込まれる前に、あの娘達を救わなければならない」
ハンスによく似たコウモリ型のロボット=ルイザがパタパタと不器用に飛びながらやって来て、彼の隣にとまりました。
「人はいくつもの並行世界を思い浮かべる。自分にとって幸せな世界を、幸せな夢を。
昔、ある少年が自身の幸せな運命を作る為に、何度も時間軸を遡った。
少年は美しい少女との恋を成就させ、己の悲劇的な運命を変える事ができた。
でもそれは長くは続かなかった....。
失われた時間軸は時を遡り、その意思は形を変えて少年に罰を与えた。
少年は高次元の存在となり、"高みの存在"となって永遠に彷徨う事となった。
彼は二度とそのような過ちを犯す者が現れないよう、ゲートの監視者となった」
ルイザは再び飛び立ち、まるでじゃれつくように少年の周りを飛び回りました。
「リーネス。君は僕の静止にも関わらず、それを行ってしまった。これは君が立ち向かわなければならない運命なんだ」
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